西安 城壁(じょうへき) シルクロードの出発点 西の城門(にしのじょうもん) 
西安の城壁は唐隋の時代のものをもとにして明代の1378年に造られました。現在中国で完全に残る唯一の城壁で、東西南北に城門が設けられています。西安の城壁で最大の西門(せいもん)、安定門と言われ、この門はシルクロードの発着点ともなりました。城壁の高さは十二メートル、城壁の上は幅十二メートルの道路が走り、東西南北に城門があり、城壁の四隅には物見櫓である望楼があります。現在西安のシンボルとして夜になると美しくライトアップされています。西安のイルミネーションツアーの必見する観光場所ともされています。

陝西歴史博物館 西安観光地
西安歴史博物館
陝西歴史博物館(せんせいれきしはくぶつかん)は大雁塔の西北にある博物館で敷地面積2万坪もあり、周恩来元総理大臣の提案によって1991年に開館しました。四合院造りという伝統的な民家の建築様式と唐代の宮殿造りを融合した形で建設されました。11万3000点の収蔵品のうち、3000点のみの逸品が常時公開されています。一つたりとも見逃せないものばかりで、見学時間は最低2時間が必要です。館内にはトイレや休憩室などの設備も整っており、ゆっくりと鑑賞できます。
陝西歴史博物館(せんせいれきしはくぶつかん)
正面のホールに入ると、高さ3.1mの巨大な石獅子が目に飛び込みます。則天武后の母親の墓から運ばれてきたもので、その豊満な造形は唐代の美意識を十分に表現しています。
獣首瑪瑙杯 陝西歴史博物館
展示室は年代別になっており、第一展示室は先史時代から秦代までの文物を展示しています。先史時代の土器と周代の青銅器はデザインが多彩で賑やかです。秦の始皇帝陵から出土した等身大の兵隊と馬の埴輪もあります。
唐三彩 陝西歴史博物館
2階第2展示室は漢から魏晋南北朝にかけての展示室です。動物や幾何図案が精巧に彫り込まれた漢代の瓦、秦代に比べて体が小さく見える漢代の兵馬俑、少数民族の顔をする魏晋南北朝の埴輪、仏像などが見物です。
2階第3展示室は隋・唐から清代までのものを陳列しています。ここでは金銀細工や陶磁器、壁画など、栄華を極めた唐代らしい逸品が並びます。そして西域の商人や芸能人の顔をする唐三彩、西の国々から伝わってきた瑠璃など、エキゾチックな雰囲気が漂います。なお、宋代以降の陶磁器も見事です。

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by xiantabi | 2018-07-31 11:37 | 海外旅行 | Comments(0)


弘法大師空海ゆかりの青龍寺
有名な遣唐使の弘法大師空海に縁のある青龍寺(せいりゅうじ)(青竜寺も書く)は西安市の東南部、楽遊原にあり、582年に創建されました。元の名前はは霊感寺と言いましたが、711年に青龍寺と改名されました。
青龍寺
唐の時代にはかなり有名な寺院であったようで、日本との縁も深いです。658年〜649年の間に19回の遣唐使が長安を訪れています。著名な「入唐八家」のうち、空海、円仁、円行、円珍、恵運、宗叡の6人僧侶がここで仏教密宗を学びました。最も有名なのは弘法大師空海です。空海は804年にここで恵果法師を師として、真言密宗を伝習しました。
青龍寺 桜
1981年、日本仏教界は青龍寺の境内に、空海記念堂と空海記念塔を建立しました。日本真言密宗の参拝団の記念植樹した桜の木が13種類、1000本以上、栽培されています。
ここ青龍寺は四国八十八箇所巡りに所縁があるので、0番札所ですので、スタンプを押してくれます。四国4県の人達の寄付によって再建された経緯もあるので、建物も唐様では無く日本的な感じがします。本堂の脇の別室で朱印帳を受け取れます。

西安 大唐不夜城 夜景観賞と歩道街散策
大唐不夜城
大唐不夜城は【西遊記】で御馴染三蔵法師ゆかりの西安のシンボルとされている大雁塔の南にあります。敷地面積967ムー、総投資額50億元です。ここ、大唐不夜城は唐代の文化ををテーマとする全長1500メートル、幅480Mの彫刻・塑像が並んでいる中央景観大通りです。アジア一と呼ばれる大唐不夜城には、開元広場、貞観広場、玄奘広場、開元盛世テーマ彫刻、(則天)武后行従彫刻、貞観ノ治テーマ彫刻、大唐群英彫刻なども順次展開して、玄奘三蔵法師、唐の太宗李世民、有名な詩人李白などなどの御馴染の唐代人物の青銅彫刻・塑像の中でぶらぶらする時に、千年前の栄えている大唐時代に帰る気がします。
唐代人物の青銅彫刻・塑像
この不夜城には、ショッピングモール、飲食、レジャー、観光、ビジネスなど諸機能を備える新しい観光エリアとしても注目されています。夜になると、大雁塔より、開元盛世テーマ彫刻まで、ライトアップされ、特に開元盛世テーマ彫刻広場では、円形の柱のLEDで、花火、京劇くま取り、海族館の魚などを表現していて、絶対見たいです。ものすごく奇麗な大唐不夜城は絶好的な西安ナイトツアーの観光施設になると思います。

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by xiantabi | 2018-07-30 12:14 | 海外旅行 | Comments(0)

2010年の国慶節を迎える為、大明宮国家遺跡公園(だいめいきゅうこっかいせきこうえん)が10月1日に中国西安で、開園しました。大明宮遺跡は現在の西安市北部に位置する唐代の宮城跡です。中国政府は2007年から主要な建造物を復元し、公園として整備しました。現在、中国では「シルクロード」を世界遺産として申請する準備を進めており、大明宮国家遺跡公園もその重要な一部となるそうです。
大明宮は、唐太宗貞観8年(西暦紀元634年)に建造されました。唐高宗からの唐朝歴代の帝王がここに居住し、朝政事務を司っていました。大明宮は、かつての唐200年の政治、文化中心地でした。大明宮は唐代の最も雄壮な宮殿建築群ですし、世界史上でも、最も雄壮な宮殿建築群の1つでもあります。遺跡公園のハイライトは、独特な東方古建築遺跡(紫宸殿、含耀門など)、「月光大明宮」のイルミネーションなどです。
大明宮国家遺跡公園は、敷地面積が3.5平方キロメートルりますが、無料区と有料区に分けられます。無料区は総面積の三分の二を占め、観光客は無料で観光できます。有料区は文物保護区と文物展示区です。また、考古作業は開園中にも行われ、観光客は近距離で大明宮の考古作業を見学できます。
この一方、中国歴史ドキュメンタリー映画「大明宮」の世界初の試写会が9月9日、ニューヨークの国連本部で行われました。これは中国西部の都市・西安のイメージを世界的に広めるための活動の一部です。

中国駐国連副代表の劉振民大使は試写会の席上で西安について触れ、人々が真っ先に思い浮かぶのは必ず秦の始皇帝の兵馬俑だとしました。これから世界に公開されるこのドキュメンタリー映画は、西安の歴史上もう一つの重要な時期、唐代の宮殿遺跡である「大明宮国家遺跡公園」をテーマにしており、皆様に1000年前の唐代の盛況を紹介する見込みです。
西安崋山・西安華山・長空桟道・西安崋山日帰りツアー
西安崋山ロープウエー
中国五岳というのは恒山・泰山・嵩山・衡山・華山のことを指していて、何やら神聖な山です。華山は西安から東に2時間、五岳の中では最も交通の便に恵まれた観光地です。西安までは高速道路があり、山頂近くまで、西峰と北峰のロープウェーもあるので、西安からの日帰り観光地として賑わっています。
崋山は中国陝西省東部、華陰県の南、秦嶺山脈のもっとも東にある秀峰です。標高1997メートル(中峰)で、山体は花崗岩からなり、北側は断層による急峻な崖をなします。花のように美しい山容が遠くからも望めるため、この崋山という名があります。崋山は西の少華山に対し、太華山とも言います。渭河が黄河に流入する地点を見下ろし、渭河盆地の南辺にそびえたつ関中一の山であるところから、古くから五岳の一つ西岳(せいがく)に数えられ、詩文によく詠まれました。蓮花(れんか)峰、玉女(ぎょくじょ)峰、朝陽(ちょうよう)峰など、風化によってつくられた奇峰、奇洞が多いため、有数の観光地となっています。
中国五名山のひとつに数えられる華山の花崗岩の急峻な斜面や山肌に、急な石段や鎖場が無数に作られており、 中でも断崖 に木組みの板を渡しただけの「長空桟道」が有名です。断崖絶壁の「長空桟道 」は世界一危険なハイキング道とも言われています。標高2,000mの垂直に切り立った崖沿いに作られた「長空桟道」です。幅50cmある かないかの木製の桟道を、命綱と鎖だけを頼りに歩かなければなりません。その崋山の最難関の長空桟道は冒険心の旺盛な方であれば、日本 では体感できないスリルを味わいに訪れて頂きたい場所です。

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by xiantabi | 2018-07-23 10:44 | 海外旅行 | Comments(0)

西安観光
 西安は中国陝西省の政治、経済、文化の中心であり、交通の要でもあります。西安市街区の面積は1066平方キロメートルで、人口は525万人です。 西安は温帯半湿潤季節風気候に属し、四季の変化がはっきりしています。年間平均気温は14度くらいで、1月の平均気温が1度、7月の平均気温は26度です。雨雪が少なく、年間の平均降雨量は600ミリしかありません。
 西安はかつて「長安」と呼ばれ、ローマ、アテネ、カイロと共に世界四大文明の古都でした。紀元前11世紀、周文王が?水の両岸に豊と鎬の二京を造り、3100年に亘る都としての歴史が始まりました。紀元前11世紀から紀元10世紀にかけては、西周、秦、漢、隋、唐など13の王朝が相次いでここに都を設けました。西安は東と西の文化を繋ぐ、シルクロードの起点でもありました。唐代には多種多様な人や物が行き交う、世界最大の国際都市でした。今でも市街地は城壁で囲まれ、古都の赴きを強く残しています。
 唐の時代には、日本からたくさんの遣唐使が長安に派遣されました。阿倍仲麻?は長安に54年も滞在し、宗教文化の紹介や日中両国の友好に?献をしました。空海は青龍寺で密宗文化を一心に学び、密宗の法を授かりました。帰国後は、日本における密教伝播に多大な功績を残しました。このことから現在、西安は京都市、奈良市と友好都市の関係にあります。
 西安のおもな観光地は世界遺産の兵馬俑をはじめ、大雁塔、華清池、陝西博物館、青龍寺、鐘楼、法門寺などです。まさに観光の宝庫であり、毎年内外から多くの観光客が訪れています。
碑林
唐末から五代のころにかけて建てられた。唐の天佑元年(紀元904年)に節度使韓建が長安城縮小工事の際、重要な碑石が散逸しないようにと「石台孝経」と「開成石経」を尚書省の西に移し、宋代にそれらを他の石碑と共に再び現在の碑林跡に戻した。その後、石碑の陳列と保護のための建物が建てられ、金と元の時代にもたびたび修築された。明の嘉靖34年(1555年)、関中大地震では碑林もおおきな被害を破るも、万歴年間の修理保全を経て現在に至る。院内の木の牌坊と石門は明代の建築で、その格子や門の上の石彫は明代の典型的風格を持っている。清の康煕年間に石碑の補修がなされ、乾隆年間に建物の大規模な改修が行われた。またその後、明、清の石碑を設置するために更に3棟を増築した。石刻室には中型、大型の昭陵六駿など国宝クラスの石碑ばかりが展示されており、碑林には漢、魏、隋、唐、宋、元、明、清各王朝の碑石、墓誌が約2300基出蔵されている。その優れた書で知られているものには、張旭と懐素の「千字文」があり、他にも李斯、欧陽詢、顔真卿、柳交権など名家の筆跡が千余年の時を超えて残されている。

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by xiantabi | 2018-07-22 14:12 | 海外旅行 | Comments(0)

西安観光 広仁寺

西安チベット仏教寺院
広仁寺がラマ寺とも呼ばれ、古い都の西安をとりかこむ明代城壁の内側、北西の曲がり角に位置している。陝西省内にある唯一のチベット仏教・ゲルク派(別称は黄教)の寺院であり、今まですでに三百年余の歴史を持っている。1703年に清朝の聖祖康熙帝が西の辺陲を視察する際、民族的結束と多民族的国家政権の統一をいっそう強固にするために、西北地方の一大要塞である西安で広仁寺を創建するようにとわざわざ指示を下した。西北地方にある各民族の一致団結と安定を固めることは皇帝の本意であった。その後、歴代のダライ・ラマとパンチン・ラマにとどまらず、チベット、モンゴル、青海、甘粛などからきた活仏ラマら上層の人々が朝拝に上京する途中、この寺が行宮として利用された。歴史上、康熙帝、乾隆帝、西太后、康有為、梁啓超、程潜、楊虎城などの名人がかつて参拝にきたことがあるが、現在でも各階層の名流がつねに訪れる寺院として栄える。
広仁寺は漢民族地方で咲き誇る雪蓮花のごとく、高潔な息吹をもって各地の信者と観光客を巡礼か遊覧に来ようと引き付けている。1703年、清の聖祖玄?は国境地帯の防衛と安全強化という大局に基づき、陝西地方を大清帝国が西南のチベットと西北のモンゴル地方を営む一大軍事拠点に建設しようと目ざした。10月12日から25日まで陝西地方を巡視したり、山川と黄帝陵を祭祀したり、学校と賢人を奨励したり、被災者を救援したりして、広く民望を収めようとした。そのほか、駐在する軍隊を検閲してその軍功を励ましたと同時に、各地にある諸部のモンゴル首領を接見してそれぞれに恩賞や官位を授けた。これら一連の動きにおいて、「天下に心を存して西の陲を眷顧する」という心掛けおよび「惟茲で隴の区に関して、実は疆を封じる重みに切する」という意図をしばしば強調していた。
戦略的な安全確保を目ざして政治、経済、軍事など多岐にわたった措置を積極的に取り入れた以上に、康熙帝は「俗に因って民を宜しくする」という方針を実施していた。「武を閲する頃」において、西安城内の地形を見回って爽やかな高地を一ヶ所選んだあと、朝廷が金を支給してここで仏教寺院を建立するようにと詔を下した。霊鷲山のような霊山聖境、香城浄土を設けて、これをもって「五陵六郡の衆」と「外藩属国」を引き付け、ひいては「王化を助け」「民?を錫し」て辺境ないし全国を「長く治め久しく安んずる」という目的に達そうとした。また、この寺は長安の「満州城」内に住むモンゴル族とチベット族の上層階級や親王やベイレなどに提供した宗教施設でもあった。康熙帝は広仁寺という名を賜り、「慈雲西蔭」の文字がある勅額を残し、『御製広仁寺碑』の銘文を撰した。寺名と扁額と直筆の碑銘は広仁寺が康熙帝から得た三大賜物である。広仁寺を建てた康熙帝の本意はモンゴル族とチベット族の習俗にしたがって西北と西南の辺境地帯を綏定することにあるゆえに、寺が竣工してからすぐラマ教ゲルク派の「縁起性空」という学説を広げる専門的な道場に欽定された。
広仁寺は内地と辺陲地方での各民族が友好往来するための掛け橋であり、ハーモニー社会を構築して民族的求心力を凝集する宗教的場所でもある。我が国のチベット仏教文化のワン・スポットとして、貴重かつ豊富な文物、深みと重みがある文化、そして優雅な趣に満ちた境内に恵まれて、仏教関係の一大名所旧跡に数えられる。
八宝塔縁起
広仁寺の住持であるニンチンザムス上人が釈迦牟尼仏の一生の八大功徳を記念する八宝塔を建立するようにと発願して以来、多くの信者から援助を得て戊子年の秋にようやく大願成就するようになった。貴重な漢白玉に木目細かい彫刻を施してできた宝塔はその荘厳さに圧倒される。チベット仏教の伝統的な儀式をきちんと踏まえて安置し開眼を行い、それから数多くの経典と神聖な仏具を入れこんだ。安置した吉日に、これ以上にないほど法悦がみなぎり、祥雲が端整に照り、広く衆生を済度して福を賜り民を恵むことになった。これをもって六道の衆生を功徳して、苦から離れて楽を得させ、幸福と知恵を増進させ、さらに、社会の調和をとり、国を泰くして民を安んずることを願ってやまなかった。
千仏殿
広仁寺千仏殿は特に念入りに作られた仏殿として全中国でユニークなものであり、建物の内側にあるデザイン、八枚の吉祥図、雲、龍などはいずれも手作りの木彫で完成された。あわせて黄金を4.6キロも使った。建物の中にサンスクリット、チベット文字、モンゴル文字、漢文などの文字で刻んだ経文があり、中華の多民族的大家族の調和を象徴している。ここはラマたちが朝晩読経する場所でもある。2006年10月25日、中国仏教協会の副会長ジャムヤン・トブタン活仏が千仏殿の開眼にもっぱらおいでになった。
千仏殿のそばに西安城壁につながる小さい門がついている。西安城壁内の北西の角でこの寺を建てたことは、当時の創建者が苦心を重ねた結果である。北西の角で寺を建てるとは西北地方を鎮めるという意味になる。
殿内ではツォンカパ師弟三尊が祭られている。ジャツォジェとコクジュジェ(パンチェン大師一世)は彼の二大弟子であった。この三体の仏像はミャンマーの貴重な紅の木を彫刻してできたものであり、殿内の千仏は台湾からの金メッキ銅像である。
目隠しの塀
高さ6メートル、幅10メートル、厚さ1メートルを誇る広仁寺の目隠しの塀は宮殿や寺院の一番目の障壁であり、門を遮るような機能を果たす。これは皇族寺院の特徴であり、来訪者が直ちに入らずに、目隠しの塀を巡ってその両側から入るように導く。塀の頂は煉瓦を重ねてできた軒であり、瓦葺の屋根の下、1メートルの所に石煉瓦で積み上げた厚さ一尺のものがあって、東西に平行して貫いている。塀の真中は浮彫の丸まった龍の柄で飾っている。塀についた煉瓦彫刻は生い茂った花の模様であり、さらに仏教の十八羅漢、釈迦牟尼像および龍の図案が整って嵌めこまれている。真に迫った造形は生き生きして、煉瓦彫刻の絶品となり、歴史的価値とともに芸術的価値も備わっている。
広仁寺の山門の内側に立った目隠しの塀には、精緻で美しい銅製の壁画が掛けてある。この絵は『蒙人御虎図』とも呼ばれ、チベット語では「ソポダツェ」と言い、チベット仏教の伝統的な吉祥図案である。晴れ着を着用したモンゴル人勇士が鉄の鎖で猛虎を一頭引っ張るという画面が描かれていて、チベット仏教寺院ではつねにみられる壁画の一つである。モンゴル人勇士、鉄の鎖、猛虎はそれぞれ仏教の密教高部三怙主を象徴するものだといわれる。すなわち、勇士は十方三世にある諸仏の大悲の化身である観世音菩薩を、猛虎は諸仏の知恵の化身である文殊菩薩を、鉄の鎖は諸仏の力量の化身である金剛手菩薩を象徴している。三怙主からの庇護を祈祷して、邪気を払い福を引き、そして最終的には無縁の慈悲、無垢の知恵、無敵の力を獲得するようにと願うことは、この絵の表現意図である。庭の壁とか渡り廊下に描かれるのが一般的であり、勇士と猛虎が外側もしくは門に向かうというのは、一切の災禍と障害を払い不祥事を永遠に絶やし疫病を予防することを表す。この壁画はゲルク派寺院の風格を表現するものでもある。17世紀の中葉、ゲルク派は正法を貫き正法を広げるのに異端勢力と戦うところへ、モンゴルの指導者コシカンが味方してくれて、ようやく敵側を撃退してチベット地方で正統的な地位を確立するようになった。蒙人御虎図はこういう主立った歴史的事実を映すものとして、ゲルク派の僧侶と民衆からの敬いと崇めを受けている。なお、この絵はモンゴル族とチベット族の歴代の睦まじい仲を自分の目で見ている。
建築
広仁寺ではチベット密教の黄教寺院特有の雰囲気が立ちこめる。歴史の塵を軽く払って、素朴で古風な建物、荘厳な経堂と仏像、静かでありながら幽かに漂う蘭の香りに溢れて、いつの間にか心が明るく澄ますようになる。
広仁寺の建物が巧みに設けられて、全体からみると臥龍の形に似通っていて、寺院建築においてはめったにないものとなる。山門から後ろの殿堂までだんだん高く建てていって壮観な勢いを作り上げるのは一般的な寺院のやり方である。それにひきかえ、広仁寺は前から後ろへ建物の高さを逐一減らしていくわけである。具体的な配置とは南から北へ、山門、目隠しの塀、御碑亭、天王殿、東西の廂、本殿、千仏殿、福神殿、応接間、蔵経殿、台所、寮が順番に並んでいる。建築群の総床面積13334平方メートル、室数およそ300、空から見下ろすとまるで臥龍のようにみえる。この寺の設計者がいかに丹精を込めたかを窺うことができる。
広仁寺の雪景色
厳格な配置と秀麗な建築は広仁寺の一エッセンスである。山門の屋根で向かいあって立つ二頭の鹿、鹿の間に置いてある中立法輪、そして門前にそびえる旗竿はチベット仏教の特色を鮮明に表現している。
広仁寺の局所
上がりしびが八つ付いた康熙帝ゆかりの御碑亭
広仁寺の全景
天王殿?観音殿
殿内の真中に千手観音、両側に四天王が祭られている。東方は持国天、南方は増長天、西方は広目天、北方は多聞天である。
本殿と局所図
緑鍍母と文殊菩薩と普賢菩薩を供える。
金瓦殿
金瓦殿の両側はダライ・ラマとパンチェン大師の行宮である。一階には12歳の等身大釈迦像と高さ9.9メートルの弥勒像が祭られ、二階は蔵経閣である。金色に輝く屋根は金メッキ銅瓦で作られて、西安景色のライトスポットとなり、陝西省唯一の金瓦殿である。
 金瓦殿で納めるものとして、樟に彫刻を施して9.9メートルの高さを誇る弥勒像、数多くの精緻な手作りタンカが挙げられる。二階にあるお経を納める戸棚はすべて貴重な紅の木で作ったものである。
中国初めての黄色い福神千仏殿
この供物を常に行うことは、貧窮を退治したり、福徳を蓄積したり、糧に資したりするのに便利な事業法門である。
2008年、金融危機の災害が地球全体の衆生に波及していた。広仁寺は商売の盛り返しと庶民の裕福をひたすら願って、危機が一日も早く消えて、金銭運が隆盛に向かい、家と国が日増しに繁盛していくことを祈っていた。そのうえ、多くの仏門信者を従えて境内にある東の廂でチベット仏教五福神の筆頭である「黄色い福神」の仏像を千体供え、毎日読経して、つねに法号を宣って、衆生の幸福と財産の増長を祈祷していた。福神殿はすべて貴重な名木を手で彫ってできたものであり、その彫刻が木目細かく、技法が抜きんでていて、金箔を貼りつける作業がすでに仕上がった。ここは福を祈り財を納める巡礼者があこがれる所となり、数回にわたって全国からきた多くの名高い実業家をもてなしている。
毎年、陰暦の大晦日と元日が広仁寺黄色い福神の供養日に決められて、次に来る年では幸福と知恵の両方増長、財産の増加、吉祥と健康を祈祷する大型法会を催す。
巡礼者が千元を寄付したら、福神像を一体供えることに認められる。
放生池
広仁寺には放生池(竜眼泉)が二つあり、寺院の全体からみると臥龍の両眼にそっくりである。日は高く、放生池のほとりに緑樹の影が重なって揺れている。こういうムードに置かれてこそ、人々は慈悲と憐憫の心に満ちた生命の本義を感じ取るようになる。
十相自在図(ナンキューワンタン
民国時代に陝西省主席の任にあたった楊虎城がファンドを下付して広仁寺の西の廂を修復する際に、時輪金剛心呪という念入りな煉瓦彫刻が完成された。この絵は七つのサンスクリットから構成して、上は月日、下は蓮華座である。七つのサンスクリットと月日と蓮華が合わせてちょうど十相になるから、十相自在図と呼ばれる。この絵は平穏無事、吉祥、魔除けの意味を持ち、チベット仏教の典型的なマークである。
仏像
千手観音
大慈大悲千手千眼観世音菩薩像は高さ6.6メートル、重さ2トン、ロシアの貴重な椴松を彫刻してから全身に金箔を貼りつけてできたものであり、黄金に輝いている。観音像は全部で四十の手が備わる。なお、仏教は二十五の因果関係を講じる。二十五に四十をかけたら千になり、手一つに目一つずつがつくゆえに、千手千眼観世音菩薩と呼ばれるようになる。千手観音は手が多く、目が多く、知恵が多く、慈悲が多く、求めが有れば必ず応じ、慈悲のきりがなく、願力が広くて深い。頭の上に阿弥陀仏が載せてある。
緑鍍母
伝説によると、文成公主が嫁いだとき12歳の等身大釈迦像をチベットに持ち去ったという。唐の太宗皇帝は仏座が空いていることに気付いて、どういう仏像を供え補うかに悩んでいるところに、緑鍍母が「別の仏像を祭らなくても結構です。お釈迦様の代わりに教化と衆生済度を行わせていただきたいです。」と口を開いて話した。それからこの緑鍍母像は神州大地の隅々まで名を馳せるようになった。これによって、広仁寺は緑鍍母の全国的な主要道場となり、青海、甘粛、内モンゴル、チベットなどから多くの巡礼者が距離の長さをものともせず、緑鍍母像を参拝にきた。モンゴルとチベット地方では、西安の広仁寺に疎いかもしれないが、長安の緑鍍母ときたら皆知っているほどである。
舎利塔
2009年8月1日、タイの居士であるナンタナ女史が広仁寺に釈迦牟尼仏の真身舎利を贈った。陝西省偉志コーポレーションの向炳偉代表取締役が釈迦仏の骨舎利を納める舎利塔を造るのに百万元を寄進した。この舎利塔はチベットで誂えて精美を極めた手作りの金メッキものである。
マニ車
マニ車はチベット仏教における祈祷と修行の常用仏具の一種であり、マニ転経輪とも呼ばれる。ハンディータイプと寺院の棚に固定するタイプという二種類に分かれるのが普通である。
広仁寺のマニ車は外形が円筒で、真中に筒を回す心棒が貫く。円筒の表面にチベット仏教の六文字真言が刻まれているのみならず、筒の中にも経文が入っている。1回回すと十万回六文字大呪文「オンマニベミ」を読んだことになる。
44のマニ車に取り囲まれた大殿はティピカルなチベット仏教のスタイルを思う存分に示している。チベット仏教においては、六文字真言を唱え続けたら輪廻の苦から解脱することができると思われる。
広仁寺の伝統的な法会の時間割
毎月の1日と15日に伝統的な法会。
元日から上元まで大型法会。
1月8日の夜6時に1万台のすう油灯をともし、盛大な福祈り法会を営む。
3月26日〜29日、聖なる緑鍍母会合。
4月8日〜15日、寺の僧侶と衆人が全員精進料理を食べ、マニ法会を催す。
10月24日〜26日、ツォンカパ創始者を記念する法会。
10月25日の夜6時に点灯祭りを行い、寺を巡って読経するイベントを主催。
大晦日の夜、山門を徹夜オープンして、福神を供えて新年の福祈り法会を挙行。
追伸:以上の期日はすべて陰暦に限る。
広仁寺
陝西省内にある唯一のラマ寺である。
国務院が国レベルの重要寺院に登録した。
康熙帝が西へ巡幸に出かけたとき、勅命を下して成立した仏寺である。
ダライとパンチェンが朝拝に上京する途中の行宮である。
乾隆帝と西太后が参拝したところである。
全国無二の緑鍍母主要道場である。
精緻で全国でもユニークな千仏殿を所有している。
12歳の等身大釈迦像を祭っている。
陝西省最大の千手観音像を供えている。
文成公主と王昭君が長安で奉じたところである。
西安市の重要な文化遺産保護機関である。
西安市観光協会のメンバーである。
国家3Aクラスの観光スポットに認定された。

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by xiantabi | 2018-07-20 13:15 | 海外旅行 | Comments(0)

亮廟
五丈原の住所:陝西省岐山県五丈原鎮蔡家坡 
五丈原の概要:
五丈原(ごじょうげん)は、西安(長安)の百十数キロ西、陝西省宝付近の渭水南岸に広がる標高差120mほどの台地です。「原」とは「台地」の意です。
五丈原は中国三国時代に蜀(蜀漢)と魏の対陣した有名な五丈原の戦いの古戦場でした。西暦231年の第4次北伐で、蜀漢の諸亮は五丈原に陣を敷き、魏の司馬懿と持久戦を繰り広げました。戦いの最中、諸亮が病によりこの地で終焉したことは有名です。蜀軍と魏軍の対陣は百日余りに及びましたが、234年8月、諸亮は病死し蜀軍は撤退しました。魏軍は撤退した蜀軍を追撃しようとしましたが、蜀軍は反撃の形勢を示し、司馬懿は慌てて軍を退いていました。人々はこれを揶揄して諺を作り「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言いました。司馬懿は人伝にこのことを聞き、「私は生者を相手にする事は得意だが、死者を相手にするのは不得手だ」(『論語』の「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」に基づいたと見られる)と答えたといいます。司馬懿は撤退後の諸亮の陣営を視察し、「天下の奇才」という感想を漏らしました。
五丈原には諸亮廟、三国城(チープなテーマパーク)、麓に諸泉があります。

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by xiantabi | 2018-07-20 13:07 | 海外旅行 | Comments(0)

西安観光
 西安は中国陝西省の政治、経済、文化の中心であり、交通の要でもあります。西安市街区の面積は1066平方キロメートルで、人口は525万人です。 西安は温帯半湿潤季節風気候に属し、四季の変化がはっきりしています。年間平均気温は14度くらいで、1月の平均気温が1度、7月の平均気温は26度です。雨雪が少なく、年間の平均降雨量は600ミリしかありません。
 西安はかつて「長安」と呼ばれ、ローマ、アテネ、カイロと共に世界四大文明の古都でした。紀元前11世紀、周文王が?水の両岸に豊と鎬の二京を造り、3100年に亘る都としての歴史が始まりました。紀元前11世紀から紀元10世紀にかけては、西周、秦、漢、隋、唐など13の王朝が相次いでここに都を設けました。西安は東と西の文化を繋ぐ、シルクロードの起点でもありました。唐代には多種多様な人や物が行き交う、世界最大の国際都市でした。今でも市街地は城壁で囲まれ、古都の赴きを強く残しています。
 唐の時代には、日本からたくさんの遣唐使が長安に派遣されました。阿倍仲麻?は長安に54年も滞在し、宗教文化の紹介や日中両国の友好に?献をしました。空海は青龍寺で密宗文化を一心に学び、密宗の法を授かりました。帰国後は、日本における密教伝播に多大な功績を残しました。このことから現在、西安は京都市、奈良市と友好都市の関係にあります。
 西安のおもな観光地は世界遺産の兵馬俑をはじめ、大雁塔、華清池、陝西博物館、青龍寺、鐘楼、法門寺などです。まさに観光の宝庫であり、毎年内外から多くの観光客が訪れています。
華山
中国五岳の西岳「崋山」
西安より210キロ、天下一の険しい山である。崋山主峰の落雁峰(南峰 海抜2160m)、蓮花峰(西峰 海抜2080m)、朝陽峰(東峰 海抜2100m)からなり、北は黄河を俯瞰し、南は秦嶺に連なる。『水経注』には、【遠くからこれを望めば花の形に見える】と記載されている。崋山には名勝旧跡が多く、山麓から絶頂までの至る所で、廟宇の遺構や天然の絶景を眺望することができる。雲を突いて架けられた長空桟道、絶壁に穿った全身巌、他に蒼龍嶺、南門、金鎖関、天梯、劈山救母石などがある。崋山は昔より「一本道」と言われており、南北に通じる道は約10km続く一本の道しかない。

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by xiantabi | 2018-07-18 13:02 | 海外旅行 | Comments(0)

 姜太公釣魚台の概況:
姜子牙釣魚台(しょうたいこううおつりだい)は、陝西省宝市の?溪峡谷にり、西安市内より、165キロ離れています。美しい釣魚台をめぐっては、商(紀元前1600−紀元前1046年)末から周(紀元前1046−紀元前256年)の初頭、姜子牙(姜太公、太公望)がこの地で釣り糸を垂れていたと伝わり、「中国一の釣台」と呼ばれています。
釣魚台
釣魚台(ちょうぎょだい)は今から約3000年前、周の名宰相太公望が隠居して釣り糸を垂れている時、賢相を求める文王と出会ったとされている場所です。周の文王がここで釣りをしていた姜子牙に出会い、軍師として迎え、808年間続く周王朝の基礎を作ったと言われています。「太公に釣られるものは、自ら進んでかかったものだ)」、「危険に遭遇しても動揺しない」などの諺はこの地から生まれました。
釣魚台は宝の県城南方の約15km、ハン渓河畔(一名を砿河と言う)の伐魚堡の南にあります。渭河の南、秦嶺山脈の北麓にあり、辺りは深山幽谷に包まれ、渓流の一画に釣魚台と呼ばれる大きな岩が河の中にどっかりと鎮座しています。
姜子牙釣魚台
釣魚台は2つの山の間にある大きな岩で、ひざまずいた跡がありました。岩の下は激流が渦巻き、水しぶきが四散し雲霧譚とも言います。岩の西側に太公廟、南側に母忌洞があります。ハン渓の樵夫であった母忌が太公を周の文王に推薦したと伝えられます。
司馬遷の『史記』によれば、呂尚は始め殷の紂王に仕えていたが奸臣の言を用いる紂王に愛想をつかして官を辞して、この地に隠棲しました。すでに77歳でした。周の文王は釣り糸を垂れていた呂尚に出会います。文王は呂尚に「あなたは私の父(太公)が望まれていたような立派なお方です。是非私を補佐して頂きたい」と言い、呂尚は83歳にして今度は周に仕えることになりました。
姜太公釣魚台
太公が文王に会ったときに出した『釣りと治国」と言う論は、見識が高く、信のおけるものでした。その大意は国を治めることは釣りと同じです。『釣りは餌をもって魚を誘う。餌がよければ魚は危険をも顧みない。禄が豊かであれば士は死ぬことさえおそれない。釣り糸が細く餌が少なければ、獲物は小さく、釣り糸が太く餌が多ければ、獲物も大きい。禄が重くなければ大賢を得ず、大賢なければ国を治めることは出来ぬ。国が治まらずして天下を取ることができようか・・・』という言論を聞いた文王は「吾太公望子久矣!」わが祖父古公は早くから呂尚のような大賢を待ち望んでいたと感嘆しました。このやりとりは、姜太公の著ともいわれる兵法書『六韜』に記されています。

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by xiantabi | 2018-07-17 15:22 | 海外旅行 | Comments(0)

 西安から東に30キロ離れた臨潼県にある。 秦の始皇帝陵の副葬坑。7,000以上の等身大の武士と馬の俑(人形)は「世界の八番目の奇跡」と絶賛されている。1974年3月に地元農民が旱魃のため、井戸を掘ったところ、2.3m地点で変わった陶器の破片が見つかった。その後考古学者の鑑定によって始皇帝の地下禁衛軍団が配置されていたことがわかった。この偶然の発見によって、地下に2,000年も眠っていた世界を驚かせる兵馬俑の存在がようやく天日の下に現れた。坑は発掘順序に基づいて一号坑、二号坑、三号坑と名づけられた。殉死制度のあった時代に、人間に代わって陶製の人形を殉死品としたことから、人類文明の進歩を伺うことができる。始皇帝陵の西側20mのところから発見されたもので、当時実用の車の2分の1のサイズで作られ、併せて二台ある。一号車は先導車で、御者は腰に剣を帯び、側に弓矢などの兵器を備えている。二号車は温涼車といって、秦の始皇帝の専用車である。二台とも四頭立ての馬車で、豪華を極め、車体には美しい模様が描かれている。金銀製の装身具は1,594件残されており、2,000年前の金属加工の精密さにも驚かざるを得ない。とにかく、百聞は一見にしかず。この目で見た者しか、その魅力と感動は体現できないだろう。
  1987年世界遺産(文化遺産)に登録。


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by xiantabi | 2018-07-12 12:17 | 海外旅行 | Comments(0)

法門寺の入場料:120元   法門寺の開館時間:08:00−18:00
法門寺の住所:陝西省宝市扶風県北  法門寺の電話番号:0917−5255296
法門寺の概況:
法門寺(ほうもんじ)は西暦499年頃建設された仏教寺院です。、唐の時代には全盛期を迎え、5000人余りの僧侶を収容できるほど、とても大きなお寺でした。また、ここは、釈迦の真身舎利を安置している点で有名です。そして30年ほど前にこの寺の下から地下宮殿が発見され、そこからたくさんの宝物も発掘されました。2000年にはサントリー美術館にも一部出展されました。
西安西ルート 法門寺
法門寺(ほうもんじ)は西安から138キロ離れた宝市の扶風県にあり、後漢の恒帝と霊帝の時代(147-89)に建立されたお寺です。境内には塔があり、法門寺はこの塔で有名です。 後漢の時代から北魏の時代まで、阿育王(アショカ)寺と称されました。アショカ王は古代インドの国王で釈迦牟天が入寂した200年後、(前 272−前226)仏の骨(舎利)を八萬八千四百に分骨して世界各地に塔を建て供養したと伝えられています。中国では19基の仏真身舎利塔が建立されましたが、法門寺塔はその中で第五基といわれています。
法門寺 十八羅漢
隋の文帝開皇三年(583年)にこの寺は成実道場と改名され、唐の高祖の武徳七年(624年)に法門寺と名付けられました。1981年大雨で法門寺の塔が半壊したため、1987年から基礎部分を含めた修理を行うと、地下に唐代に造られた石室「地宮」が見つかりました。地下宮殿から出土された四つの仏舎利の指は、目下のところ、世界で考古科学の発掘と文献や碑文を通じて釈迦牟尼の本物の仏舎利であると実証されており、現時点で仏教界の最高の聖物と言われています。一方、専門家の分析によると、地下宮殿の中で発見された四つの仏陀の指骨、その中で本物の仏陀の指骨は一つだけで、その他の三つは本物の仏舎利を保護するために模造された「影の骨」であるという見解もあります。どうあれ世界でわずかに残されている貴重な発見であることは確かです。地下宮殿の後方にある八重宝函には、仏舎利を入れるために金銀、真珠、宝石、玉石、象牙で作られた入れ子細工の箱が陳列されています。
法門寺はとても有名な名所旧跡ですし、去年より改造工事が終了でき、アジア一を誇る仏教広場ができ、電気カートなどの施設も整いていますし、西安御旅行の際、ぜひ、法門寺観光をお楽しみください。

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by xiantabi | 2018-07-11 11:59 | 海外旅行 | Comments(0)

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